小石原焼 原彦窯元

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小石原焼伝統の「用の美」を生活に

小石原焼の歴史

小石原焼の歴史を説明する上で、高取焼という存在を抜きに語ることはできません。

1600年(慶長5年)黒田長政が関ヶ原の合戦の手柄により筑前国藩主になると鞍手郡高取山麓(直方市)に最初の窯である永満寺宅間窯を開窯し、そのころこの地にちなんで、姓を高取、名を八蔵と改め、初代高取八蔵重貞が誕生しました。
その後、長政の死去に伴い、鞍手郡内ヶ磯(直方市)、白旗山(飯塚市)と窯場を移し1654年(承応3年)にこの地で八蔵は生涯を終えました。

しかし、八蔵没後、寛永5年(1665年)に上座郡鼓村(現 小石原鼓釜床)に窯を移し、「鼓窯」を築き、四年後の1669年(寛文9年)には、白旗山を守っていた初代八蔵の孫八之丞も掛勤の際に陶土を見つけ、小石原中野(現在の小石原皿山)に移窯、小石原高取時代が幕を明けます。

小石原高取時代は、天和2年(1682年)黒田三代藩主・光之が肥前伊万里より陶工を招き、 中国風の磁器を伝え、その頃すでに小石原にあった高取焼と交流することで中野焼が生まれ、遠州高取の、綺麗寂び、の芸風を完成させ、さらに発展させ、極めて多彩な茶道の道具などの作品が生み出されました。 以後代々、廃藩置県まで、この掛勤が続きました。当時小石原焼は中野焼と呼ばれ、製品は民用の日曜雑器として広く使われていました。
昭和の時代になり一般的に【小石原焼】と呼ばれるようになりました。一時は途絶えたとされる中野焼ですが、享保の末年(1929年頃)高取焼にならい再興された事がきっかけで、 今も受け継がれる要因になったと言っても過言ではありません。紆余曲折あった小石原焼ですが、大きな転機となったのは、第2次世界大戦後から始まりました。 敗戦後の物資不足から、擂鉢、甕類などの荒物の需要が拡大し、1948年(昭和23年)に九州民芸協会が設立された頃から九州における民芸運動が活発化して、 小石原焼が広く民芸陶器として消費者に受け入れられるようになりました。さらに1958年(昭和33年)に ブリュッセルで開かれた万国博覧会において、グランプリを受賞したことにより世界から脚光を集めたことで、小石原でも1960年に財団法人日本工芸館小石原分館が設置され、 1960年(昭和35年)頃から日本でも民陶祭などが開催されるようになりました。 1965年(昭和40年)頃からは活況期になり窯元がこの時には約15戸も増加しました。 理由としては、さまざま工程における作業が機械化が進み、生産量が増えた事が理由と言えます。 一つ一つの受注生産していたものが、機械化した事から大量生産も可能になり、 多くの方の目に触れるようになり、1975年(昭和50年)には陶磁器として 初めて伝統的工芸品に指定されました。

1980年代からは好景気で消費も上向きになった事から、小石原焼は生産のピーク期を迎え、窯元もさらに増加しました。 その後1987年(昭和62年)に小石原焼古窯跡発掘調査が始まり、文献の記述を裏付ける貴重な時期の出土品があったことから、 小石原焼を多く紹介した物産館などがオープンします。

現在、生産量も減少傾向にあり、窯元も沈滞している小石原焼ですが、 江戸時代から長きに渡り日本の陶芸界に大きく影響を与え続けた「用の美の極致である」であると共に、 今もなお、その意思を継ぐ後継者の手により生み出されています。 伝統的工芸品でありながら、生活の器としても愛されている小石原焼は、 真に「土と炎と技」で創り出す確かな一品と言えます。

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